2013年02月19日
旧陸軍弾薬庫跡
瀬戸内町には大戦の傷跡が数多く残っています!
古仁屋市街地から5〜6分の集落「手安」には、旧陸軍弾薬庫跡が残っています。
昭和7年に構築完成され、戦時中は南西諸島及び南方防衛の海陸空軍弾薬貯蔵補給基地として厳戒態勢がとられ警備されていた。
そのため、地元住民もその存在を知らなかったという。
この施設の内部は網の目のように組まれた鉄筋を分厚いコンクリートで固め、銅板を張り巡らせて空気が漏れない構造になっている。
また、湿気防止のため弾薬庫の周囲には空間を設け、風圧に耐えるため二重構造の建造になっている。
当時の弾薬庫としては珍しく、規模、構造とも日本でも最も優れた施設であったと言われている。
小さい頃に祖父が名瀬浦上から、大工として古仁屋に出張したと聞かされていたが、この施設や西古見等の施設を見ると納得がいく。
浦上村の空襲の際も、軍から聞きつけた情報を基に一夜で山道を掻け戻り、発見されにくい防空壕に避難させている。








古仁屋市街地から5〜6分の集落「手安」には、旧陸軍弾薬庫跡が残っています。
昭和7年に構築完成され、戦時中は南西諸島及び南方防衛の海陸空軍弾薬貯蔵補給基地として厳戒態勢がとられ警備されていた。
そのため、地元住民もその存在を知らなかったという。
この施設の内部は網の目のように組まれた鉄筋を分厚いコンクリートで固め、銅板を張り巡らせて空気が漏れない構造になっている。
また、湿気防止のため弾薬庫の周囲には空間を設け、風圧に耐えるため二重構造の建造になっている。
当時の弾薬庫としては珍しく、規模、構造とも日本でも最も優れた施設であったと言われている。
小さい頃に祖父が名瀬浦上から、大工として古仁屋に出張したと聞かされていたが、この施設や西古見等の施設を見ると納得がいく。
浦上村の空襲の際も、軍から聞きつけた情報を基に一夜で山道を掻け戻り、発見されにくい防空壕に避難させている。








Posted by buki1950 at 18:40│Comments(0)
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