2015年02月13日
山羊島近くの極洋丸と丹後丸の話
奄美大島名瀬港の船舶攻撃(1945・3・1)について(考察)
この日奄美大島の名瀬には、午前と午後にそれぞれ米艦載機が来襲した。午前中は7時35分から7時59分までの間に、24機が来襲して銃撃を加えた。この攻撃では軍も民共に特に被害は報告されていない。(註1)この時の攻撃目標が市街地か港の船舶だったのかは不明である。
午後の空襲の第1波は2時から2時45分までで、約30機が主に名瀬港の船舶を銃爆撃した。この攻撃で「呂宗丸」(大阪商船 1679トン)が沈没し、座礁していた「極洋丸」(18000トン)が火災を起こしたが午後6時に鎮火した。(註2)さらに午後3時40分にも艦載機が来襲し、船舶と陸上施設に銃爆撃を加えた。この攻撃では極洋丸同様に座礁していた「丹後丸」(日本郵船 7463トン)が火災を起こしたが、午後8時には鎮火した。(註3)後者の来襲機数は別の資料によると18機とされている。(註4)
午前中に来襲した艦載機がどの空母の所属機かはまだ特定出来ていない。だが午後の攻撃は特定出来ている。午後名瀬港を空襲したのは空母「レキシントン」の所属機である。第9戦闘爆撃飛行隊のF6F12機(5機は500ポンド爆弾1発を搭載。6機は500ポンド爆弾1発と5インチロケット弾4発を搭載。1機は写真撮影機。)、第9戦闘飛行隊のF6F4機(500ポンド爆弾1発を搭載。)、第9爆撃飛行隊のSB2C11機(各機500ポンド爆弾2発と250ポンド爆弾2発を搭載。)、第9雷撃飛行隊のTBM13機(100ポンド爆弾10発を搭載。)の合計40機である。
攻撃隊は午後1時15分から35分の間にレキシントンを発進し、午後3時30分頃まで攻撃を行った。攻撃隊には軽空母「サンジャシント」第45戦闘飛行隊のF6F8機との第45雷撃飛行隊のTBM9機が同行した。当初攻撃隊には喜界島飛行場の攻撃が命じられていたが、偵察の結果、喜界島飛行場は建設中で攻撃すべき目標がないと判断された。そのため攻撃目標が変更され(おそらく事前に決められていたのだろう。)、レキシントン隊は名瀬港を、サンジャシント隊は薩川湾の船舶と施設、及び古仁屋を攻撃に向かった。
レキシントン隊が名瀬港で主に攻撃したのが、極洋丸・丹後丸・呂宗丸の3隻である。
米軍の報告書で「2本煙突の船」「2本煙突の捕鯨船」と記されているのが極洋丸である。極洋丸には第9雷撃飛行隊が100ポンド爆弾47発のうち22発を命中させたが、第9戦闘飛行隊と第9戦闘爆撃飛行隊の爆弾3発、第9爆撃飛行隊の爆弾12発は全て外れてしまった。爆弾は広範囲に損害を与えた報告された。米軍は同船の様子について、爆撃隊と雷撃隊は「浜辺に乗り上げている」「座礁しており、放棄されて乗り捨てられている」と観測している。その一方、戦闘機隊は「人が乗り組んで、反撃していた」と同船から対空砲による反撃があったと報告している。
極洋丸は1943年8月18日に台風26号により、名瀬港の山羊島付近に座礁した後、同年11月17日以降に離礁作業を断念して放棄された。その後自衛用に装備されていた安式12センチ砲を取り外して、笠利湾の赤尾木に設置した。(註5)また通信機材も回収して、大島中学校の学生で編成された特設防衛通信隊が訓練に使用している。(註6)通信器材の回収は、大島中学校生の通信訓練の行われた、1945年2月から3月と考えられる。このことから3月1日時点でも、極洋丸に人の出入りがあった可能性は考えられる。ただ大砲の撤去に象徴的に現れているように、同船に対空砲を配備して迎撃を行うことは考えにくい。3隻の中で唯一航行可能な、呂宗丸の対空砲の見誤りの可能性が高いと思われる。
鹿児島県奄美諸島の沖縄戦ブログより
山羊島を過ぎた、ここ付近に座礁していたと思われる!



この日奄美大島の名瀬には、午前と午後にそれぞれ米艦載機が来襲した。午前中は7時35分から7時59分までの間に、24機が来襲して銃撃を加えた。この攻撃では軍も民共に特に被害は報告されていない。(註1)この時の攻撃目標が市街地か港の船舶だったのかは不明である。
午後の空襲の第1波は2時から2時45分までで、約30機が主に名瀬港の船舶を銃爆撃した。この攻撃で「呂宗丸」(大阪商船 1679トン)が沈没し、座礁していた「極洋丸」(18000トン)が火災を起こしたが午後6時に鎮火した。(註2)さらに午後3時40分にも艦載機が来襲し、船舶と陸上施設に銃爆撃を加えた。この攻撃では極洋丸同様に座礁していた「丹後丸」(日本郵船 7463トン)が火災を起こしたが、午後8時には鎮火した。(註3)後者の来襲機数は別の資料によると18機とされている。(註4)
午前中に来襲した艦載機がどの空母の所属機かはまだ特定出来ていない。だが午後の攻撃は特定出来ている。午後名瀬港を空襲したのは空母「レキシントン」の所属機である。第9戦闘爆撃飛行隊のF6F12機(5機は500ポンド爆弾1発を搭載。6機は500ポンド爆弾1発と5インチロケット弾4発を搭載。1機は写真撮影機。)、第9戦闘飛行隊のF6F4機(500ポンド爆弾1発を搭載。)、第9爆撃飛行隊のSB2C11機(各機500ポンド爆弾2発と250ポンド爆弾2発を搭載。)、第9雷撃飛行隊のTBM13機(100ポンド爆弾10発を搭載。)の合計40機である。
攻撃隊は午後1時15分から35分の間にレキシントンを発進し、午後3時30分頃まで攻撃を行った。攻撃隊には軽空母「サンジャシント」第45戦闘飛行隊のF6F8機との第45雷撃飛行隊のTBM9機が同行した。当初攻撃隊には喜界島飛行場の攻撃が命じられていたが、偵察の結果、喜界島飛行場は建設中で攻撃すべき目標がないと判断された。そのため攻撃目標が変更され(おそらく事前に決められていたのだろう。)、レキシントン隊は名瀬港を、サンジャシント隊は薩川湾の船舶と施設、及び古仁屋を攻撃に向かった。
レキシントン隊が名瀬港で主に攻撃したのが、極洋丸・丹後丸・呂宗丸の3隻である。
米軍の報告書で「2本煙突の船」「2本煙突の捕鯨船」と記されているのが極洋丸である。極洋丸には第9雷撃飛行隊が100ポンド爆弾47発のうち22発を命中させたが、第9戦闘飛行隊と第9戦闘爆撃飛行隊の爆弾3発、第9爆撃飛行隊の爆弾12発は全て外れてしまった。爆弾は広範囲に損害を与えた報告された。米軍は同船の様子について、爆撃隊と雷撃隊は「浜辺に乗り上げている」「座礁しており、放棄されて乗り捨てられている」と観測している。その一方、戦闘機隊は「人が乗り組んで、反撃していた」と同船から対空砲による反撃があったと報告している。
極洋丸は1943年8月18日に台風26号により、名瀬港の山羊島付近に座礁した後、同年11月17日以降に離礁作業を断念して放棄された。その後自衛用に装備されていた安式12センチ砲を取り外して、笠利湾の赤尾木に設置した。(註5)また通信機材も回収して、大島中学校の学生で編成された特設防衛通信隊が訓練に使用している。(註6)通信器材の回収は、大島中学校生の通信訓練の行われた、1945年2月から3月と考えられる。このことから3月1日時点でも、極洋丸に人の出入りがあった可能性は考えられる。ただ大砲の撤去に象徴的に現れているように、同船に対空砲を配備して迎撃を行うことは考えにくい。3隻の中で唯一航行可能な、呂宗丸の対空砲の見誤りの可能性が高いと思われる。
鹿児島県奄美諸島の沖縄戦ブログより
山羊島を過ぎた、ここ付近に座礁していたと思われる!


