2012年04月20日
実久三次郎神社
八百年以上前の永萬2年、源為朝が喜界島の小野津港に上陸して、一軒家を訪れると美しい娘が機織りをして居った処、為朝の顔を見ると「貴男は八郎殿ではないか」と話しかけて来たので、為朝はびっくりした。この島で自分を知っている人物がいる筈はないと問い返した処、昨夜の夢で貴男が尋ねてくる事を知らされたと申し、それが縁となり夫婦の契りを結び一子を儲けた。為朝は喜界に居っては十分な勢力を造る事はできないと感じ、小野津に神社を造って喜界を離れ大島北部に上陸したと伝えられ、これが喜界の小野津神社の由来とされています。
その後、為朝は本当を南下して各地に伝説を残して当地実久に来たのであります。この実久神社には、長子実久三次郎が祭られており、この加計呂間島の旧実久村及び鎮西村の名称もこれにちなんで居るとの伝説があります。鎮西八郎為朝の子、実久三次郎が宇検の名柄八幡と力比べをした時に用いたと伝えられる石が二基、当神社に安置されているのでありますが、この石に三次郎の手形、足型と言われる痕跡がありまして、実久三次郎が如何に巨人型の人であったかを物語っております。
と、瀬戸内町の看板に説明されていました。




その後、為朝は本当を南下して各地に伝説を残して当地実久に来たのであります。この実久神社には、長子実久三次郎が祭られており、この加計呂間島の旧実久村及び鎮西村の名称もこれにちなんで居るとの伝説があります。鎮西八郎為朝の子、実久三次郎が宇検の名柄八幡と力比べをした時に用いたと伝えられる石が二基、当神社に安置されているのでありますが、この石に三次郎の手形、足型と言われる痕跡がありまして、実久三次郎が如何に巨人型の人であったかを物語っております。
と、瀬戸内町の看板に説明されていました。




Posted by buki1950 at 15:03│Comments(0)
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