2011年12月14日
有盛神社
平 有盛(たいら の ありもり)は、平安時代末期の平家一門の武将。平重盛の四男。母は正室の藤原経子。
異母兄の資盛に従い、三草山の戦いに参戦。源義経に敗れた後は、屋島の平家本陣に落ち延びた。最後は壇ノ浦の戦いにおいて、資盛、従兄弟の行盛と三名で手を取り合い、海中に身を投じた。享年22。と史実に残されている。
伝説として、
奄美群島には資盛、行盛、有盛が落ち延びたという平家の落人伝説がある。行盛神社、有盛神社、資盛の大屯神社が祀られ、特に平安文化が融合した諸鈍シバヤは重要無形民俗文化財に指定されている。
その平有盛が居城したのが、奄美市名瀬浦上町である。
浦上川をさかのぼっていくと工業高校の向かい付近に小高い森がある。
その頂上に有盛の墓が有る!
神社のご神体仏像は、航海安全の為に寄進されたもので、秀逸な掘出技術が認められている。
石造り弁財天像で、薩摩藩の役人田代清方(たしろきよかた)が航海安全を祈願して寄進しています。
頂上の墓碑は薩摩藩大島代官の肥後翁助(ひごおうすけ)が文化13年(1816年)に寄進建立しています。
12月13日現在、墓碑にいくには長靴などハブ警戒の準備などをしていくことをお進めします。
12月18日以降は、雑草などがなぎ払われてしばらくは普段着などで散策が楽しめます。

異母兄の資盛に従い、三草山の戦いに参戦。源義経に敗れた後は、屋島の平家本陣に落ち延びた。最後は壇ノ浦の戦いにおいて、資盛、従兄弟の行盛と三名で手を取り合い、海中に身を投じた。享年22。と史実に残されている。
伝説として、
奄美群島には資盛、行盛、有盛が落ち延びたという平家の落人伝説がある。行盛神社、有盛神社、資盛の大屯神社が祀られ、特に平安文化が融合した諸鈍シバヤは重要無形民俗文化財に指定されている。
その平有盛が居城したのが、奄美市名瀬浦上町である。
浦上川をさかのぼっていくと工業高校の向かい付近に小高い森がある。
その頂上に有盛の墓が有る!
神社のご神体仏像は、航海安全の為に寄進されたもので、秀逸な掘出技術が認められている。
石造り弁財天像で、薩摩藩の役人田代清方(たしろきよかた)が航海安全を祈願して寄進しています。
頂上の墓碑は薩摩藩大島代官の肥後翁助(ひごおうすけ)が文化13年(1816年)に寄進建立しています。
12月13日現在、墓碑にいくには長靴などハブ警戒の準備などをしていくことをお進めします。
12月18日以降は、雑草などがなぎ払われてしばらくは普段着などで散策が楽しめます。

Posted by buki1950 at 14:08│Comments(0)
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